サウナとテレビにオモウコト
私はサウナが大好きだ。
そして、今日も、サウナは平和だ・・・
「サウナとテレビ」
今回のテーマは壮大である。
人類がその答えに到達するためには、あと、何万年ほど必要であろうか?
(考えるだけで、水風呂の温度が上昇しそうだが)
ちなみに、
「サウナにテレビは必要か否か」
そんな論争を、わざわざこの場に持ち出す気は、さらさらないのだが。
あえて思うところを言うのなら・・・
答えは、
「わからない」
そのままである。 さらに言うならば、
「どっちでもいい」
そう、どうでも、どっちでも、何チャンネルでもいいのである。
明らかに場違いな番組に嫌気がさしたり、
ゲラゲラと笑いながら喋る若者に愛想をつかしたり・・・
それも一つの選択の結果なのである。
テレビがあるサウナに行こうと決めた、自分の、選択と行動の結果なのである。
なりたい自分になるため、在るべき自分でいるためには、絶え間なく降りかかる選択を、的確に、妥協なく選び続けなければならないのである。
(私の場合は、愛のある方を選択する様に心がけているのだが、なかなかのまだまだである)
そして、自身が選択したという明確な自覚さえあれば、その後の出来事が思いもよらない物であったとしても、不思議と許せるものなのだ。
そう、
「これも一つの蒸気なのだ」
と、思えてしまうのである。
そして、その蒸気こそ、こだわりを消し去る美しき天女なのである。
さて、
そもそも、何故、サウナにテレビがあるのだろうか?
暇つぶし
熱さから気を紛らわすため
コミニュケーションツール
いくつか考えられるのだが、どれであろうとも、そこまで重要な理由ではない気がしてくる。
そんなことを考えながら蒸されていると、ふと降りてくるものがあった。
サウナ室内における、他者への理解と受容は、テレビを通して生まれるのではないだろうか。
見たくない番組だけれども、これを楽しんでいる人もいる。
どうしても嫌なら、目を閉じて自分と向き合えば良い。
テレビはサウナ室内における、共存の道しるべなのかもしれない・・・
サウナでの体験は、人生での体験なのだ。
テレビがなければ自分と向き合い、あれば他者と向き合い受け入れれば良い。
「人を許すことを覚え、身につけなければいけません。許す力量のない者には、愛する力もありません。最悪の人間にもどこか取り柄があるように、最高の人間にも悪い面はあります。これがわかれば、敵を憎む気持ちが薄れます」
キング牧師の有名な言葉である。
今日も、テレビは、我々にそう語りかけているに違いない。
さて、今日のサ飯は焼きそば定食かな。