創造さんサウナ日記

サウナで降りてきたコトバ

愛と平和とリラックス

 私はサウナが大好きだ。

そして、今日もサウナは平和である。

 

私は、今日、とある海沿いのサウナにいる。

久々のサウナ遠征である。

ここに来たのには、理由がある。

小さな旅に出て、今ある自分の環境を見つめ直したかったのだ。

勿論、今ある環境に満足はしているのだが、満足や不満足という概念ではなく、

「魂が異なる何かを、経験したがっている」

と、言うのが、何となくしっくりくる表現かもしれない。

まあ要するに、いつもと違う「ととのい」が、欲しくなった訳である。

はじめてのサウナに、胸の高まりは最高潮になる。

アロマはマウンテンハーブ。私の大好きなハーブである。

いざ入室。

薄暗い。いや・・・暗い。そして中々熱い。

これはかなり私好みの空間である。

勇ましく上段へと向かう。

熱い。

下段から様子を伺うべきだったか。

そう思った束の間、オートロウリュウが私の心を鷲掴みにし、熱風が吹き抜ける。

降り注ぐマウンテンハーブの調べ。

最高だ。最高すぎる。

 

熱めのサウナでしっかりと汗を出し、身体が求めるままに水風呂へ、

キンキンではないが、妙に水質が柔らかい。

地下水か・・・

深さも丁度良い。

 

そして、外気浴。

潮風が・・・最高に気持ちいい。

中々の強風なのだが、まるで春を告げるそよ風のように優しく感じられるのである。

リラックスは最高の平和をもたらす。

一流のアスリートや表現者は、非常にリラックスを好む。

それは、リラックスが最高のパフォーマンスを生むことを知っているからである。

そして、そのリラックスは、魂にも最高のパフォーマンスを生み出すのだ。

強風さえも、そよ風に変える安らぎ。

それこそが平和なのではないだろうか。

日常、我々はリラックスしてはいけない。と、叩き込まれ、安らぎや安堵は、非労働的で、悪いことのように擦り込まれ、生活している。

しかし、魂は、ずっと、愛と平和に満たされることを求めているのだ。

リラックスを、求めているのだ。

「幸せになることに躊躇してはいけない」

と、ジョンレノンは言った。

愛と平和のために、我々は躊躇なく、リラックスを求め続けるべきではないだろうか。

イロイロ楽しむコツとは

楽しむことは大切だな・・・

ここ最近、改めて思うことだ。

 

何十年に一度とかいう大雪が降った。

それから何日かが経って、雪は凍り、重たくなった。

未だ、道路は凍っていて、朝と夕方には、渋滞が続く。

早朝の雪かきに加えて、いつもの倍以上の通勤時間である。

車の長い列が、ぐったりと老朽化した列車にも見える。

 

 

なんだか、ささくれだった気分が続いたな・・・

楽しめていない自分を振り返って、そう思った。

 

私は、日頃から、絶え間ない自分の思考に、耳を傾けるよう、心がけている。

様々な思考の中で過ごしていると、不意にネガティブな思考をチョイスしてしまうことがある。

そんな時は、心の方向修正をする。

 

今、自分はどう感じたいのか。

今、何を思い、創造するべきなのか。

 

明確な答えが出るまで、決して焦らず、じっくり考えてみるのだ。

そして、すばらしい感情が湧き上がってくるのを待つ。

そして、その湧き上がった感情を、ネガティブな思考と、そっくり入れ換えてしまうのだ。

これは私なりの方法なのだが、とてもシンプルで、効果的な方法である。

 

自然には絶対に勝てない。

だから、勝とうと思わないことだ。

そもそも、自然と人間のパワーバランスなど存在しないのだ。

自然を受け入れて生きることは、本来厳しくて当たり前のことなのだ。

だとすれば、雪かきも、渋滞も、当然のことなのだ。

 

そう思ってみれば、

雪の冷たさを感じ、火の暖かさに感謝する。

定められた時間に苦痛を感じ、自然が持つ大らかさの真の意味を知る。

今までのネガティブな思考は、自然に感謝するための、ツールにすぎない。

そんなふうに思えてくるのである。

 

 

楽しむためのツールを準備するよりも、心から何かに感謝する。

私が思うに「楽しむ」とは、結局そういうことなのではないだろうか。

 

「一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」

と、ブッタは言った。

 

全てのものが幸せになる外的要素(ハード)など、存在しないのである。

生きとし生けるものが幸せになる唯一の方法とは、各人が自らの心にダイブすることだと、私は思うのである。

 

全てが、全てに感謝し、幸せが降り注ぐ世界でありますように。

そう思いながら、私は、私の心にダイブする。

 

必ず見つかる愛と受容を求めて。深く深く、ダイブする。

 

 

サウナまでの道のりは、そうやって、私を楽しませてくれるのだ。

 

 

サウナとテレビにオモウコト

 私はサウナが大好きだ。

そして、今日も、サウナは平和だ・・・

 

「サウナとテレビ」

 

今回のテーマは壮大である。

人類がその答えに到達するためには、あと、何万年ほど必要であろうか?

(考えるだけで、水風呂の温度が上昇しそうだが)

 

 

ちなみに、

「サウナにテレビは必要か否か」

そんな論争を、わざわざこの場に持ち出す気は、さらさらないのだが。

あえて思うところを言うのなら・・・

答えは、

 

「わからない」

 

そのままである。 さらに言うならば、

 

「どっちでもいい」

 

そう、どうでも、どっちでも、何チャンネルでもいいのである。

 

明らかに場違いな番組に嫌気がさしたり、

ゲラゲラと笑いながら喋る若者に愛想をつかしたり・・・

 

それも一つの選択の結果なのである。

 

テレビがあるサウナに行こうと決めた、自分の、選択と行動の結果なのである。

 

なりたい自分になるため、在るべき自分でいるためには、絶え間なく降りかかる選択を、的確に、妥協なく選び続けなければならないのである。

(私の場合は、愛のある方を選択する様に心がけているのだが、なかなかのまだまだである)

 

そして、自身が選択したという明確な自覚さえあれば、その後の出来事が思いもよらない物であったとしても、不思議と許せるものなのだ。

そう、

「これも一つの蒸気なのだ」

と、思えてしまうのである。

 

そして、その蒸気こそ、こだわりを消し去る美しき天女なのである。

 

 

さて、

そもそも、何故、サウナにテレビがあるのだろうか?

 

暇つぶし

熱さから気を紛らわすため

コミニュケーションツール

 

いくつか考えられるのだが、どれであろうとも、そこまで重要な理由ではない気がしてくる。

 

そんなことを考えながら蒸されていると、ふと降りてくるものがあった。

 

サウナ室内における、他者への理解と受容は、テレビを通して生まれるのではないだろうか。

見たくない番組だけれども、これを楽しんでいる人もいる。

どうしても嫌なら、目を閉じて自分と向き合えば良い。

テレビはサウナ室内における、共存の道しるべなのかもしれない・・・

 

サウナでの体験は、人生での体験なのだ。

テレビがなければ自分と向き合い、あれば他者と向き合い受け入れれば良い。

 

「人を許すことを覚え、身につけなければいけません。許す力量のない者には、愛する力もありません。最悪の人間にもどこか取り柄があるように、最高の人間にも悪い面はあります。これがわかれば、敵を憎む気持ちが薄れます」

キング牧師の有名な言葉である。

今日も、テレビは、我々にそう語りかけているに違いない。

 

 

さて、今日のサ飯は焼きそば定食かな。

 

 

 

 

 

 

白昼堂々サウナで神とたわむれる

 私はサウナが大好きだ。

サウナに入ると人は幸せになる。

本気でそう思っているうちの1人である。

サウナに入ると脳内がリラックスするせいか、時に神の言葉が降りてくるような錯覚に陥ることがある。

かの有名な「ととのう」という言葉を生んだ、濡れ頭巾ちゃんにも、神が降臨したに違いない。

私は今日もサウナにいる。

そして神の言葉を待っている。

時には熱波を浴びながら・・・

時には水風呂のバイブラに揺られながら・・・

降りてくるのを待っている。

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「サウナは平和だ・・・」

 

私はサウナに入る度、こう思うようにしている。

 

日常のストレスを忘れるために皆ここに来るのだが、中にはそのストレスを態度にあらわして、酷い振る舞いをするマナー違反者もいる。

 

だが、そんな時も「サウナは平和だ・・・」と、心の中で繰り返すうちに、なんとなく許せてしまうからだ。

 

仕事で嫌なことがあったのなら、汗と一緒に流してしまえ。そんな励ましの言葉さえ浮かんでくる。

 

世の中には魔法の言葉というものがあって、「サウナは平和だ・・・」もそのうちの一つだと思っている。

 

今の時代には、どんな魔法の言葉が必要なのだろうか?

 

「みんな平和について語るけど、誰もそれを平和的な方法でやってないんだ」

と、ジョンレノンは言った。

 

人の集団意識は見事に世の中を変える。今の世の中で言えば無惨にと言い直した方が良いかもしれないが・・・

 

一人一人が繰り返す、小さな不安の選択、些細な不安の創造が、巨大なモンスターとなる。

 

支配者は、それを巧みに利用する。

 

そんな構造は、小さなサウナ室の中にも、大きな地球上でも変わらないのである。

 

 

愛と不安なら愛を選びたいものだ。一人一人がそう選択する。それこそが、平和を創る平和的な方法なのかもしれない・・・

 

 

よし、そろそろ水風呂行きますか。